今回は私たちにとってはあまりなじみのない国、スーダンをフォーカスしてみたいと思います。
スーダンがなぜイスラーム国家なのか、という前にまずは簡単にスーダンの説明です。

〇スーダンってどんな国?

・面積:188万㎢ ※アフリカで3番目、日本の約5倍
・人口:39.35万人
・首都:ハルツーム
・人種・民族:主としてアラブ人,ヌビア人,ヌバ人,フール人,ベジャ人等。(200以上の部族が混在)
・言語:アラビア語(公用語),英語も通用,その他 部族語多数
・宗教:イスラム教,キリスト教,伝統宗教

最近よくニュースで耳にする南スーダンとは2011年まで同一の国でした。内線の末、北部と南部は別々の国になる選択を取ったのです。

参考:(※1)(※2)

●スーダンってどこにあるの?

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ここです!アフリカ大陸のエジプトの下!エジプトに流れるナイル川はスーダンにも流れています。


●スーダンはなぜイスラーム国家なのか

さて、ようやく本題に入りましょう。

◆スーダンにイスラームが広がるまで

B.C.10世紀、ナイル川上流に最初の黒人王国であるクシュ王国が誕生しました。一時はエジプトをも支配していたこの王朝は製鉄業で栄え、自分たちの文字を開発するほど高度な文化をもつ王国でした。現在、首都であったメロエはスーダンの観光地の一つとして当時の文化を後世に伝えてくれています。

A.D.4世紀まで続いたクシュ王国を征服したのは、アクスム王国(B.C.2世紀~A.D.6世紀)です。この王国は4世紀にキリスト教を受容します。

そして7世紀にアラビア半島で誕生したイスラームがムスリム商人やスーフィーなどによってこの地に広められました。現在のエジプトやリビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコがある北アフリカはウマイヤ朝が領土を広げてイスラーム化していきましたが、スーダンはこの範囲ではありませんでした。

こうしてスーダンの北部は16世紀までにキリスト教社会からイスラーム社会へと変わったといわれています。(注1)

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◆イスラーム国家への道

少し時は進み・・・19世紀の始め、スーダンはエジプトにより征服されます。そこでスーフィー教団の一つであるサンマーニーヤ教団からムハンマド・アフマドという男が立ち上がりました。自らを「マフディー(救世主)」だと宣言し、マフディー運動を展開しました。これはエジプトを堕落したムスリムだとみなし、それを支える軍隊と戦ってスーダンから追い出す運動です。見事彼らは勝利を手にするのですが、彼の死後、19世紀末には再びイギリス・エジプト勢力によってスーダンは再征服されてしまいます。

このとき、イギリスは「南部政策」をとって、スーダン国内を北部と南部に分断させる方策をとりました。北部には経済的な支援をし、南部には浸透しかかっていたアラビア語やイスラーム教を排除し、英語、キリスト教をエリート層の間で普及させました。南部に対する経済的な支援は特に行われず、これは後の南北内線の要因の一つに結び付いています。イスラームがキリスト教より政治的に、経済的に強い勢力だという構造を作ってしまったのです。

1956年、スーダンはイギリスから独立を果たしますが、その前年に起こった北部vs南部の第一次内線は1972年まで続きます。平和協定が結ばれますが、南部で石油が見つかったこともあり1981年に再び内線が勃発してしまいます。政府はスーダン国内でアラビア語を公用語として強要し、非ムスリムを第二級市民に格下げし、ムスリムと非ムスリムの区別をより一層強くつけました。

国内が内戦で混沌としている中、ムスリム同胞団と呼ばれる学生活動が1954年から始まります。これはスーダンのイスラム原理主義活動の始まりともいわれています。当初は学生たちの集まりでしたが、次第に勢いをつけ、政治の世界にも活動の場を広げました。

ここでイスラム原理主義について少し述べておきます。本当に簡単に言うと、イスラームの原点(コーラン)に戻り、堕落した現実を批判しようというものです。また政治と宗教は不可分であるとするため、イスラム法(シャーリア)の遵守を主張します。

さて、そういったイスラム原理主義の考えをもつムスリム同胞団は1980年代のニメイリ政権の下で勢力をさらに伸ばしていきます。彼らが行いたいこと、イスラム法(シャーリア)の導入ですね。こういったイスラーム化中心の政策が遂行されていきました。

しかし、国際社会は黙っていませんでした。イスラム原理主義反対派のアメリカなどの圧力もあり、ニメイリはムスリム同胞団と手を切ります。これは彼のスーダン国内での破滅につながりました。次の政権も長くは続かず、1989年、現在もスーダン大統領であるオマル・バシールがクーデターを起こし、彼が政権を握ります。ムスリム同胞団は「国民イスラム戦線(NIF)」という政党名で、バシール政権を支えました。

特に、バシール政権のイデオロギーとなっていた人物がトゥラービーという名の男です。彼はムスリム同胞団結成当初から頭角を現し、複数の政権で影響力を持ってスーダンのイスラム原理主義化を推進してきた人物です。彼は1991年、湾岸戦争を機に、世界中のムスリムが自由に語り合える場を作る必要があると、「民主アラブ・イスラム会議(PAIC)」というものを創立しました。これにより、ムスリムならビザなしでスーダンに入国できるようになったのです。「対話」の場を一般のムスリムにも作りたかった彼の想いとは反対に、多数の過激派が入国し、欧米諸国からスーダンはテロリストの集まりだと決めつけられてしまいました。この頃、オサマ・ビン・ラディンもスーダンに滞在していました。

これらより、スーダンはテロ支援国家だとみなされるようになり、先進諸国からの経済支援も停止され国際的に孤立していくのです。

こうした背景があり、2001年、バシールはトゥラービーを国家転覆の企図のとがめにより逮捕・拘束し、イスラム原理主義色を薄めようとすることに努めました。また、近隣諸国との関係改善にも努め国際的孤立状態から少しずつ脱却をしてきています。


参考文献(※3~8)



最後に。「スーダン」とは「黒人の国」という意味を持ちます。実際、黒人の王国から始まり、キリスト教を受け入れ、イスラームが広まり、イスラム原理主義の下イスラーム国家としての道を歩んできたスーダン。さて、彼らは自分たちを何人だと思っているのでしょうか?英語ですが、現地の人々のインタビューをまとめた動画があるのでご紹介します。

Sudan: Divided Identity, Divided Land


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参考
(※1)外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/data.html
(※2)World Bank http://data.worldbank.org/country/sudan
(※3)牧村 匠太郎(2006)「南北スーダン内戦と難民帰還援助」、『大東アジア学論集 7』、pp.93-102.
(※4)世界史の窓(2014)「スーダン(1) 植民地化に対する抵抗」、http://www.y-history.net/appendix/wh1402-012.html、2016年11月30日アクセス。
(※5)第一学習社編集部編(2003)「グローバルワイド最新世界史図表」、第一学習社、pp.90-98.
(※6)世界史の目(n.d.)「スーダンの黄金王国」、http://www.kobemantoman.jp/sub/51.htm、2016年11月30日アクセス。
(※7)外務省(2016)「スーダン基礎データ」、http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/data.html2016年11月30日アクセス。
(※8)外務省(2003)「スーダン共和国」、『海外生活の手引き 第13巻 北アフリカ編』、世界の動き社、pp.47-85.

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注釈
(1)14世紀とする文献もあります。 (※4)